なしのつぶて

本や映画についての個人的な感想、それに関する雑談を綴ります。

ダレル・ウィート「ドント・スクリーム」

 

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今日の映画

ダレル・ウィート 監督作品

「ドント・スクリーム」

カービー・ブリス・ブラントン 主演

 

 「ドント・スクリーム」は2016年に公開された、実際の事件を元にして制作されたというアメリカ映画。事件の内容を調べたが、2015年のカナダで起きた銃殺事件のことだそうだ。

 被害者は18歳の青年で、携帯電話の窃盗被害にあった。携帯電話を探すために追跡アプリで捜索したところ犯人に遭遇し、銃殺されたというものらしい。

 

 この映画はきっかけこそ「携帯電話を持っていかれて」「アプリを使用して探し」「犯人の家に辿り着く」ものだが、それに「監禁家族」の要素が加わっている。犯人の家族は「新しい家族」を迎え入れては監禁する、狂った人間たちだった、という設定だ。

 着想も要素も面白い。監禁家族の設定、昨今話題のSNSからターゲットを探すところも良い。ただ何が問題かといえば、やはり邦題の「ドント・スクリーム」ではないだろうか。

 

 最近、どうやら「Don't」をつけておけば大成功するのではないかという考えがあるらしい。Don't Scream(叫ぶな)なり、Don't Sleep(眠るな)なり。

 それはSNSを通しても公開前から話題だった、ドント・ブリーズがきっかけだったのではないかと言われている。Don't Breathe(息をするな)から始まり、原題を邦題に変える時に「Don't」をつけて、いわゆる「ドントシリーズ」と言われるくくりが作られた。

 だが、これは大きな問題だ。タイトルも映画の雰囲気も似ているとなれば比較されることは避けられない。そして、比較したうえで「面白い」と判断されるのはドント・スクリームではない。

 かく言う私も、ドント・ブリーズ(Don't Breathe)と似たタイトルのため、まあ似た作品なんだろうとあまり期待をせずに観た。

 

 オープニングは面白かったと思う。緊張感もあり、明るい音楽でInstagramを引っ張ってきて、主人公とその日常を簡単に紹介する。先程の殺伐としたものとは正反対な空気感が流れて、その奇妙な違和感が良かった。だがそこまでだ。ストーリーに入ってしまえば退屈だった。共感できない主人公(そもそも日本とアメリカの高校生という生き物の違いもあるのかもしれない)に、理由や動機がよく分からないまま進んでいくストーリー。

 半ばで、「あと半分しかないのにここまで引っ張って大丈夫?」と思ったが、やはり観客がいちばん知りたい重要な「動機」は何も描かれなかった。「他人を監禁してまで家族に固執する理由」「いつから始まった習慣なのか」そういったことに関しての説明は何もない。84分という短い時間にするために要素を削ってしまった結果だったのかもしれない。

 

 さて、話は変わるがドント・ブリーズはどうしても雰囲気ごと味わいたいと言う妹と映画館まで行き、終わったあとに酷く脱力したことを覚えている。

 もともと私はびっくりホラーが苦手な性質で、妹に引きずられるようにして朝から映画館に行ったのだ。

 「無理だと思ったら寝よう」なんて思いながら観た。(実際最も私が驚き椅子を揺らしたのは、制作会社のロゴマークが表示された瞬間だった)

 あれは、例えるならばまさに遊園地のお化け屋敷を歩くような映画だったような気がする。驚いたり叫ぶほどの衝撃は幸いなことになかったが、ただ、主人公たちと共に私も自然と息を殺した。映画館という環境も手伝ったのかもしれない。

 しかしあの映画については後半に明かされる事実の設定がよく出来ていて、動機も人物の異常性も、何もかも申し分なかったと思う。すべてを納得させるように巧妙に描かれている、とても良い映画だったと私は思っている。

 (私の恋人は、元海軍という設定といってもあまりにも常人離れした老人の姿にすっかり萎えて、まったく中身に入り込めなかったと言っていたが)

 

 ところで、SNSの使い方というのは人それぞれだと思う。無意識で自己顕示欲を満たすひともいれば、自己肯定感が欲しくて使うひともいる。誰か友人たちの様子を見るために、といわゆるROM専で使用するひともいるだろう。

 SNSが無くなっても死にはしない。友人たちに連絡をとろうと思えばいくらだって他に手段はある。けれど私たち現代人は、「他人の様子を知ることができて」「自分の近況を誰かに伝えられる」SNSに、いつの間にか依存している。

 

 社会が危険だからと保護したプライベートな部分、自分のプライバシーをさらけ出させるものがSNSだ。

 私も使い方について人のことはとやかく言えないが、特に誰でも見ることのできるコンテンツとして扱っているひとたちは自分の写真に気を配っておいた方がいいのかもしれない。最近は電信柱やマンホールで写真から住所を割り出せるし、家の前にわざと変わったもの(見つけた住人が明らかに違和感だと思うもの)を置いてSNSで拡散させ、アカウントと個人、住所すべてを結びつけて犯罪に応用するものもいるという。

 

 6月に入ってから、連日のように殺人事件のニュースがある。SNSがきっかけの犯罪率は毎年増加を続けている。自分には起こりえないこと、と思い込まないようにすべきだ。

 危険なこと、危険なひと、を判断するのはとても難しいが、それでもどうにかして自分の身を自分で守っていくしかないのだから。

 

2016年 ダレル・ウィート「ドント・スクリーム」(82分)

クリス・ルノー/ヤーロー・チーニー「ペット」

 

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 今日の映画

クリス・ルノー 監督

ヤーロー・チーニー 監督

「ペット」

 

「ペット」は2016年に公開されたアメリカのアニメーション映画だ。イルミネーション・エンターテインメントが制作した、といってもピンとこないかもしれないが、アメリカのユニバーサル・スタジオの子会社だそうだ。

ミニオンシリーズは観たことがなくても毎日のようにCMで目にしている気がする。あのバナナ好きの黄色い謎の生命体を生み出した会社の作品となる。

 

 まず初めに、みなさんはペットを飼ったことがあるだろうか。もちろん「飼った」という言い方は悪いかもしれない。家族のようなもの、一緒に暮しているもの。そういう気持で接している人もたくさんいるだろう。

 残念ながら私は、一般的な動物を飼育した経験がない。田舎の娘ということもあり、経験と言ってもカエルやアゲハチョウ、カタツムリ、カナヘビを育てたことくらいだ。

 友人には、動物と暮らしている子が何人もいる。犬、猫、ハムスター、ハリネズミ、ウサギ、カメ、フクロウ。みんなそれぞれの暮らしに合わせて動物と暮らしているらしい。彼女たちはよく彼らの話をしてくれる。SNSなんかで写真を目にしたりもする。なるほど飼い主によく似るというのは的を射ているなと勝手に納得していることもある。

 そのペットたちを、彼女たちは本当に最後まで見届けるのだろうか。見届けることができるのだろうか。

そういった意味でも考えさせられる映画である。

 

 

 

 (私が観たのは字幕版のため声の雰囲気は少し変わるかもしれないが)

 主人公の犬はマックス。飼い主と幸せに暮らしている小型犬だ。だがある日、飼い主が保健所から大きな犬を連れてくる。犬はデュークと名付けられ、仲良くするように言われるがマックスにはこれまで守ってきた自分の居場所というプライドがある。デュークを追い出そうとしたことでマックスも、そしてデュークも「ペット」という立ち位置を失いそうになるが、様々な動物たちが協力してみんなそれぞれの飼い主のところに帰る、といった話だ。

 

この映画は、ペットvs捨てられた元ペットたち であり、人間以外の生き物vs人間 の戦いでもある。そして、そこには人間に飼育される立場になった動物たちの切実な気持ちがあるのだと思う。ペットとしての宿命、帰る家があるものとないものの違い。動物と暮らしたことがある方も、動物と暮らしたことがない方も、たくさんの視点から観ることのできる映画だ。

 正直、テレビCMで流れていた、飼い主がいない間のペットはこんなことをしているのかもしれないよ! という想像の世界だけではなかった。これは飼い主と忠実なペットたちの物語ではなく、もっと壮大な、動物たちの大冒険の物語だ。

 動物の大冒険といえばピクサーの制作した「ファインディング・ニモ」を思い浮かべる。しかし、思ったよりも比較はしなかった。「ペット」には「ペット」の良さがあったということだ。映画が成功した理由はこれではないだろうか。

 

 突然だが、私は一人暮らしで、田舎でも都会でも捨て猫を見たことがない。

 小学校の同級生には公園で子猫を拾った女の子がいたが、動物が段ボールに入って捨てられているなんて都市伝説ではないのか? と思っているくらい、あまり野良の動物に馴染みがなかった。

 最近になればあの子は野良だ、この子は飼い主がいるんだろう、この子は迷子かもしれない、と見分けがつくようになったが、そもそも近隣をひとりで歩いている動物が野良かそうでないかなど、あまり気にしたことがなかったのだ。

 首輪がなければもちろん保健所に連れて行かれるし、殺処分される。近頃ではSNSで動物の引き取り手を探して、殺処分を回避しようとする行動もある。

 ときどき、ニュースを見ていて考える。数年前、農場から脱走したシマウマがいた。麻酔に失敗して、捕獲と同時に溺死が確認された。最近でも、クマが民家にあがりこんでいて、麻酔で捕獲したのちに殺処分された。人間は、思ったよりも動物を処分することに容赦がない。捨てることもきっと簡単にできるのだろうし、自分より脆弱な生き物だからと痛めつけることも簡単にできるのだ。

 自然災害があったとき、皆口々に言っていた。

 「命があってよかったね」

 その通りだと思う。家族みんなで生き延びたことは本当によかったと思う。だが、その命の陰で犠牲にしたもののことはどう考えていたのだろう。山に置いて行かれた犬たちは野生化した。鎖につながれたまま置いて行かれた犬は為すすべもなく餓死した。野良という生き物は見つかれば保健所が捕まえて、引き取り手がなければ殺処分される。動物の命はやはり人間よりも下等だとどこかで扱われているのだ。もちろん、クマのように人間の命を脅かすものもいるため一概には言えないのだが。

 

 動物たちにも意志がある。それは人間には聞こえないけれど、確かにお互いを思いやって、そうして飼い主を愛しているという強い意志である。飽きたら捨てよう、なんて簡単に考えられるほど弱い生き物ではないことを覚えておいた方がいい。

 これは余談だが、中国の神話に麒麟というものがいる。穏やかで美しい霊獣であるが、殺生を嫌う。殺生をするものは、麒麟の逆鱗に触れるそうだ。

 どうか、最後まで責任を持って共に暮らしてほしいものである。カメに至っても、きちんと娘や孫に世話を引き継いでほしい。池でカメの共食いを見たことがある身としては切実な願いだ。

 

 最後になるが、恋する女(雌)は強い、ということだけ書いておきたい。普段は室内で可愛がられ、昼のテレビドラマを眺めるだけの生活をしていた小さな女の子がいざとなったら一番に立ち上がり、野良猫に強烈なタックルをかまして啖呵を切り、何度も引っ叩き、無双ゲームのように動物たちをなぎ倒していく姿は圧巻だった。

 起きあがろうとする敵にさらに追い打ちをかけ「寝てな!」なんて、一度は言ってみたいセリフである。 

 

 

 クリス・ルノー/ヤーロー・チーニー「ペット」(90分)はイルミネーション・エンターテインメントの制作です。

 

ジョン・カサヴェテス「オープニング・ナイト」

 

オープニング・ナイト [DVD]

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今日の映画

ジョン・カサヴェテス 監督作品

「オープニング・ナイト」

ジーナ・ローランズ 主演

 

 これは恋人からすすめられて一緒に観た映画だ。テーマは「孤独」「第二の女」「女としての老い」といったところか。

 ジョン・カサヴェテスとその妻であったジーナ・ローランズが共演している、ジョン・カサヴェテスが演者も監督もした作品になる。

 

 女優として地位も名誉もある主人公が「女として老いた」役をやらなくてはいけなくなるが、彼女はまだ自分のことを若いと思いたい。情熱があって、みずみずしくて、美しい自分の過去の栄光に苛まれて自分の年齢と与えられた役を受け入れられず、目の前で事故死したファンの女の子の幻覚を見るようになる。

 

 正直、あまり面白くなかった。退屈で、途中で何度も腹の虫が騒いだ。事故死した女の子のことは精神乖離の一種か、もしかしたらタルパか?といろいろ考えたが、あくまでも「私(主人公)が創り出した幻影」ということで話が進んだ。

 じゃあ急に襲ってくるなよ。ホラー映画かよ。本当に顔が綺麗だから怖いわ。

ツッコミたいところだが、これは割愛しておく。

 映画界の評価は非常に高い作品らしいが、役に食われて同じように精神が分裂する雰囲気ならダーレン・アロノフスキー監督の「ブラック・スワン」の方が面白かったな、と観ながらぼんやり考えていた。

 

 ただ、彼が私にこれを持ってきたことは正しいと思う。いま23歳になる年齢だが、とっくの昔に私は老いと戦い始めている。

 男性にはあまりわからないのかもしれないが、成人をすれば肌質も髪質も変わってくるし、肌荒れは治りにくくなるし、自然とシミは浮き上がってくる。何より目尻のシワが目立つ。周りは気にしていないかもしれない。それでも、こっちはいつからあるシワなのか、どこで日焼けしたときのシミなのか気になるものである。何ならもう30代の自分がみっともないオバチャンになっていたらどうしようと不安である。

 成人をして何年かが経ち、自分より年下の子が世間で活躍していると自分に対して簡単に絶望するようになった。最近、恋人の影響で野球をみることも理由のひとつだ。あの選手は若そうだな、と思ったらだいたい年下か同い年で、恐縮する。こんなに立派な活躍をしている子もいるのに、私と来たら社会人をさっさとドロップアウトしてしまった。まったく、堪え性がない。

 ここで笑い話にできたらいいのだが、私の場合はそうもいかない。ここ数日も自己肯定感が生まれなくて死にそうだった。何とか自分を褒め、慰めつつ生きている。

 

 さて、私個人の話は置いといて、最近の俳優で「こんな役やるようになったんだ」と思った人が、いつの時期でも何人かはいるだろう。

 彼女は少し前までは制服を着て高校生だったはずなのに、急に結婚して人妻の役をやるようになった。とか、彼女は独り身を謳歌している主役だったのに、いつの間にか母親役として助演になっている、とか。あとは不幸な未亡人妻役や不倫系のドラマでばかり見かけるけど、似合っているなと思ってしまう、とか。

 役者というものはやはりイメージで形作られていて、だから一度ついたイメージはもう消えないのだという。

 この映画で主人公も「老いた女の役を演じきって、あの女優は何歳だ」と詮索されることに何よりも怯えていた。役の幅は狭まるのではない。完璧に根元から動いてしまうのだ。少女から高校生、独身OL、人妻、母親といったふうに。

 子役、と呼ばれるのは何歳までか。何歳を過ぎてしまったら大人の事情で使いにくくなるのか。私にはわからない。けれど実際、名女優の安達祐実も一世を風靡したが「顔と実年齢が合わない」ということで一時期まったく仕事がなかったとも言う。ではどういう役なら手に入るのか。焦るだろうし、自分に自信をなくしてしまうこともあるだろう。

 「使いにくいから」なんて理由で仕事がなくなるなんて厳しい業界だと思うが、それが事実なのだ。だから俳優は日々挑戦を続ける。

 そしていつしか年齢を重ね、女の場合は急に「老い」をぶつけられる。昨日までは少女だったはずなのに、と誰もが思うだろう。エプロン姿で家の前を掃くお節介なオバチャンになんてなりたくなかったはずだ。まだ現実で結婚をしてもいないのに母親として母親らしく振る舞わなければいけない時もそう。必要な役だから、そうならなければいけない。

 それは私たちが考えるよりも大きな恐怖だ。

 主人公は孤独だった。舞台に立つため、演じるために夫も子供も持たなかった。女として輝いていられなければその先はただの老女になるしかない。それが痛い程わかっていたから、怖かったのだと思う。

 私ももう少し年を重ねたら、この映画を絶賛することもあるのだろうか。

 

 それにしても、歩けないほど酔った姿で舞台に立って演じ切る主人公にも、その姿で舞台に出す周りの役者たちにも、驚いた。そこには確かに演劇への情熱と、絶対にこの演者でという強い意志があった。

 

1977年 ジョン・カサヴェテス「オープニング・ナイト」(144分)

向田邦子「父の詫び状」より「父の詫び状」

 

新装版 父の詫び状 (文春文庫)

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今日の本

向田邦子

「父の詫び状」

 

  中学校の時、現代文の教科書に載っていたような気がする。一度は目にしたことがある人の多いであろう向田邦子のエッセイ集、「父の詫び状」である。今日はそこからタイトルにもなっている「父の詫び状」を紹介する。

 

 このエッセイは読みこんでみると向田邦子自身の人間性、そして不器用だった父の姿がはっきりと見えてくる。

 内容は、言ってみれば彼女の記憶の連想ゲームのようなもので、「そう言えばこんなこともあった」「これと言えば、この話もしたい」と、リズムの良い会話のように話が転がっていく。そこが面白い。

 

【つい先だっての夜更けに伊勢海老一匹の到来物があった。】―本文1行目

 

【私は伊勢海老を籠から出してやった。どっちみち長くない命なのだから、しばらく自由に遊ばせてやろうと思ったのだ。】―本文8行目 

 

 何で急に伊勢海老?

 正直な感想がそれだった。しかもその伊勢海老を籠から出して自分の家の中で自由にさせるというのだ。初っ端から発想が常人の域を既に超えている。どこに知人から貰った食用の伊勢海老を、生きているからと家に放してみる人がいるだろう。

 しかも玄関に? 伊勢海老が乾いているとは思えないが本当にいいのか? そんな不安がついつい頭を掠めてしまう。伊勢海老のにおいがこちらまで伝わってくるようである。

 

 

【玄関には海老の匂いとよだれのようなしみが残った。】―12P 本文9行目

 

 

 だから言わんこっちゃない。ついついツッコミを入れてしまう。時間が経ってしまえば余計に生臭いだろうし、後悔しただろうに。

 しかし、この「玄関」で「三和土を洗う」行動が導入部分であるから、最後まで読み終えたときに納得してしまうのだ。伊勢海老に無駄はなかったのだと。

 

【「お父さん。お客様は何人ですか」

いきなり「馬鹿」とどなられた。

「お前は何のために靴を揃えているんだ。片足のお客様がいると思ってるのか」】―13P 本文13行目

 

【父は身綺麗で几帳面な人であったが、靴の脱ぎ方だけは別人のように荒っぽかった。】―15P 本文1行目

 

【父は生れ育ちの不幸な人で、父親の顔を知らず、針仕事をして細々と生計を立てる母親の手ひとつで育てられた。 (中略) 早く出世して一軒の家に住み、玄関の真中に威張って靴を脱ぎたいものだと思っていたと、結婚した直後母にいったというのである。】―15P 本文5行目

 

 父は不器用な人だ。子どもたちにどう接するべきかうまくわからないのは自分が父親を知らなかったからかもしれない。見本になる父の姿がわからなければ、自分自身がその役目になったときに困惑するものだろう。当時は特に父親が絶対で、厳しく在るべきものだったのだろうから尚更だ。

 それにしても急に怒鳴られたらこちらだって反抗してしまいたくなるが、よく黙って素直にいられたものだと思う。「うるせーババア」みたいな反抗期の文化はいつから始まったものなのだろうか。この時代にそんなことを言ったら容赦なく拳骨を食らったのだろう。

 これは余談だが、最近の子どもたちも黙って従えとまでは言わないので、反抗する際の言葉には気を付けていただきたいと思う。現に同じ年齢の女性(教職員)が最近中学生男子に「ババア」と言われたらしく、落ち込んでいた。二十代前半女性の精神はデリケートなのだ。もっと優しくしてほしい。

 

 大学生というものを経験して、酒を飲むことと嘔吐することがイコールで繋がれている場合が多いことに私は呆れている。一気飲みはかっこいいなんて誰が作った風潮だ。今すぐ廃れてしまえ。

  アルバイトで飲食店を経験したため、その吐瀉物を片付けなくてはいけないのはお客様ではないと身に染みてわかっている。他人の吐瀉物を片付けるなんて誰が好き好んでやるものか。これから大学生になるみなさんも、現役大学生で汚い酒の飲み方を楽しんでいるいわゆるパリピも、自然と汚い酒の飲み方をしている人も、意外と外から見たら見苦しいことこの上ないからやめていただきたい。お客様はすべてが神様ではないのでぜひ宅飲みで暴れてくれ。

 

【保険会社の支店長というのは、その家族というのは、こんなことまでしなくては暮してゆけないのか。黙って耐えている母にも、させている父にも腹が立った。】―19P 本文6行目

 

【「悪いね」とか「すまないね」とか、今度こそねぎらいの言葉があるだろう。私は期待したが、父は無言であった。黙って、素足のまま、私が終わるまで吹きさらしの玄関に立っていた。】―19P 本文11行目

 

  吐瀉物を片付けるこの気持ちである。どうして自分が、と、悔しいし惨めなのである。しかも吐いて行った本人は「楽しかった」という気持だけなのである。馬鹿馬鹿しいにもほどがある。

 確かにこれはもう誰かに褒められないとやっていられない。たった一言でも「ありがとう」が聞けたらまあいいかという気持になれる。

 しかし父は何も言わなかった。その代わり、真冬に「寝間着姿で」「素足のまま」「私が終わるまで」「吹きさらしの玄関に」「黙って立っていた」のである。ここが父の人間性を強く感じられるところだ。

 

【巻紙に筆で、いつもより改まった文面で (中略) 「此の度は格別の御働き」という一行があり、そこだけ朱筆で傍線が引かれてあった。

 それが父の詫び状であった。】―20P 本文5行目

 

 父は本当は申し訳ないと思っていたが、上手に言えなかったのだろう。だから行動で示した。そして、面と向かってではなくわざわざ「巻紙で」手紙を寄越した。本当に彼は、立派な父親である。

  

 今後また「父の詫び状」から抜粋して書くことがあるかもしれないが、このエッセイは全24篇で構成されている。当時の生活、そして実際に起こっていた事件や流行歌などもさりげなく知ることができる本である。

 

向田邦子「父の詫び状」は文藝春秋からの出版です。

江國香織「ウエハースの椅子」

 

ウエハースの椅子 (ハルキ文庫)

ウエハースの椅子 (ハルキ文庫)

 

 今日の本

江國香織

「ウエハースの椅子」

 

 一番はじめから何てものを持ってきたのだ、と言われそうな小説だが、恐らく私が本を語るならここからだろうと思った。夏目漱石与謝野晶子も好きだ。でもそれは、また別の機会に。

 

 「ウエハースの椅子」の主人公は三十八歳の女性だ。六年関係を持っている恋人には妻と二人の子があるが、それは二人にとって取るに足らないこと。恋人がいる時間、彼女の生活は穏やかで満ち足りた時間になる。この恋は【完璧】なのだ。 

 以下、本文を引用しつつ読んでいく。

 

【かつて、私は子供で、子供というものがおそらくみんなそうであるように、絶望していた。】―本文1行目より

 

 これほどまでに灰色な初めの文章があっていいのだろうか。これから物語が始まるというのに、「絶望」という単語が登場する。この一文がもう勝負だと思う。この文で暗い話はいいと読むのをやめる人もいるだろうし、綺麗な文章だとうっとりと読み進めていく人もいるだろう。

だが読み進めていくと、この「絶望」に違和感がなくなっていく。彼女は本当に絶望していて、そして、一般的に言われる「ふつう」からは少しずれている。

 ここで少し疑問なのだが、あなたにとっての「絶望」とはなんだろうか。お金がないこと? 生きている意味が見いだせないこと? それとも、自分の居場所が見つからないこと?

 思いつく限りの「絶望」はどれもきっと正解で、不正解なのだろうと思う。希望がなければ人生はすぐ絶望できる。現に私も毎週一度は必ず絶望しているような気がする。仕事を辞めたこともあって、特に今の時期は。

 社会に迎合できない。自分が社会からはみ出している。そんな感覚をきっと「絶望」と呼ぶのだ。この主人公が、はみ出している自分を案じているような描写はないが、個人的には社会からはみだすことってすごく勇気がいる。

 

【でも、私は彼が、私の髪のちょうど三ミリ外側をなでているように感じる。私の髪の、ちょうど三ミリ外側の空気を。

 たぶん、私のからだはどこもかしこも、三ミリ外側に見えないまくがあるのだ。】―15P 本文10行目より

 

 この一文で、違和感は確信に変わった。これは私がよく知っている症状に近い。 「離人感」という言葉を聞いたことがある人は、もしかしたら少ないのかもしれない。「離人症」もまた、聞き慣れない言葉かもしれない。

 インターネットで調べてみると、精神疾患の一部と表記されているものが多い。「自分ではない自分が存在している感覚」「自分と世界との間が断絶していて現実感がない感覚」だ。離人症はともかく、離人感は健康な人でも時々起こるそうなので恐らく何となく覚えがあるだろう。頭にもやがかかって、視界がぼんやりとしているあの感覚だ。夢の中を歩いているような、白い何かに包まれているあの感覚のことだ。

 昔、私はこれを白昼夢だと思っていた。違うと知ったのはごく最近のことだ。

 ここで本文に戻るが、彼女は間違いなく世界と自分との間に壁があることを察していて、自分のからだの中にいる自分自身が本物であるような、そんな感覚を持っている。恐らく、離人感が強い人物だ。

 彼女は壊れている。それを本人がわかっている。孤独で、自分の居場所がどこにあるのかわからなくて、だから他人に安心を求めてしまうのだ。他人のくれる安心なんて一過性のもので、不確かだとわかってはいても。

 この主人公は画家であるが、芸術家というものは得てしてどこかネジが一本飛んでしまっているのかもしれない。

 

【帰り道、私は注意深く、来たときと別の道を選んで帰る。上手く一人に戻れるように。】―37P 本文8行目

 

【私は彼を愛している。彼はそれを知っている。私たちはそれ以上なにも望むことがない。終点。そこは荒野だ。】―48P 本文2行目

 

【私は、自分が恋人の人生の離れに間借りしている居候であるように感じる。】―89P 本文15行目

 

 主人公の彼女はきっといつも寂しい。ただその寂しさの埋め方がわからない。だから他人と距離をとろうとするし、自分に自信がないせいで自分のことさえ「どうでもいいこと」として世界の外側に置いてしまっている。

 そのために物語は進んでいき、彼女の幸福は少しずつ揺らいでいく。

 

 あまり詳しく書いても読む気が削がれてしまいそうなので、この本はここまでにする。

 作者のやわらかな言葉選び、上手な漢字の開き、そして突拍子もない感性に私はいつも脱帽する。彼女の作品は孤独に満ちていて、だから美しいのだと思う。

 タイトル「ウエハースの椅子」について本文に言及している部分があるが、そこは今回抜粋しない。

 

今後紹介していく本たちも、あまり細かく書くことはしない。もし気になった方がいたら、ぜひ読んでみてほしい。書店にも図書館にも本は置いてあって、いつでも読むことができるのだから。

 

江國香織「ウエハースの椅子」はハルキ文庫からの出版です。