なしのつぶて

本や映画についての個人的な感想、それに関する雑談を綴ります。

向田邦子「父の詫び状」より「父の詫び状」

 

新装版 父の詫び状 (文春文庫)

新装版 父の詫び状 (文春文庫)

 

今日の本

向田邦子

「父の詫び状」

 

  中学校の時、現代文の教科書に載っていたような気がする。一度は目にしたことがある人の多いであろう向田邦子のエッセイ集、「父の詫び状」である。今日はそこからタイトルにもなっている「父の詫び状」を紹介する。

 

 このエッセイは読みこんでみると向田邦子自身の人間性、そして不器用だった父の姿がはっきりと見えてくる。

 内容は、言ってみれば彼女の記憶の連想ゲームのようなもので、「そう言えばこんなこともあった」「これと言えば、この話もしたい」と、リズムの良い会話のように話が転がっていく。そこが面白い。

 

【つい先だっての夜更けに伊勢海老一匹の到来物があった。】―本文1行目

 

【私は伊勢海老を籠から出してやった。どっちみち長くない命なのだから、しばらく自由に遊ばせてやろうと思ったのだ。】―本文8行目 

 

 何で急に伊勢海老?

 正直な感想がそれだった。しかもその伊勢海老を籠から出して自分の家の中で自由にさせるというのだ。初っ端から発想が常人の域を既に超えている。どこに知人から貰った食用の伊勢海老を、生きているからと家に放してみる人がいるだろう。

 しかも玄関に? 伊勢海老が乾いているとは思えないが本当にいいのか? そんな不安がついつい頭を掠めてしまう。伊勢海老のにおいがこちらまで伝わってくるようである。

 

 

【玄関には海老の匂いとよだれのようなしみが残った。】―12P 本文9行目

 

 

 だから言わんこっちゃない。ついついツッコミを入れてしまう。時間が経ってしまえば余計に生臭いだろうし、後悔しただろうに。

 しかし、この「玄関」で「三和土を洗う」行動が導入部分であるから、最後まで読み終えたときに納得してしまうのだ。伊勢海老に無駄はなかったのだと。

 

【「お父さん。お客様は何人ですか」

いきなり「馬鹿」とどなられた。

「お前は何のために靴を揃えているんだ。片足のお客様がいると思ってるのか」】―13P 本文13行目

 

【父は身綺麗で几帳面な人であったが、靴の脱ぎ方だけは別人のように荒っぽかった。】―15P 本文1行目

 

【父は生れ育ちの不幸な人で、父親の顔を知らず、針仕事をして細々と生計を立てる母親の手ひとつで育てられた。 (中略) 早く出世して一軒の家に住み、玄関の真中に威張って靴を脱ぎたいものだと思っていたと、結婚した直後母にいったというのである。】―15P 本文5行目

 

 父は不器用な人だ。子どもたちにどう接するべきかうまくわからないのは自分が父親を知らなかったからかもしれない。見本になる父の姿がわからなければ、自分自身がその役目になったときに困惑するものだろう。当時は特に父親が絶対で、厳しく在るべきものだったのだろうから尚更だ。

 それにしても急に怒鳴られたらこちらだって反抗してしまいたくなるが、よく黙って素直にいられたものだと思う。「うるせーババア」みたいな反抗期の文化はいつから始まったものなのだろうか。この時代にそんなことを言ったら容赦なく拳骨を食らったのだろう。

 これは余談だが、最近の子どもたちも黙って従えとまでは言わないので、反抗する際の言葉には気を付けていただきたいと思う。現に同じ年齢の女性(教職員)が最近中学生男子に「ババア」と言われたらしく、落ち込んでいた。二十代前半女性の精神はデリケートなのだ。もっと優しくしてほしい。

 

 大学生というものを経験して、酒を飲むことと嘔吐することがイコールで繋がれている場合が多いことに私は呆れている。一気飲みはかっこいいなんて誰が作った風潮だ。今すぐ廃れてしまえ。

  アルバイトで飲食店を経験したため、その吐瀉物を片付けなくてはいけないのはお客様ではないと身に染みてわかっている。他人の吐瀉物を片付けるなんて誰が好き好んでやるものか。これから大学生になるみなさんも、現役大学生で汚い酒の飲み方を楽しんでいるいわゆるパリピも、自然と汚い酒の飲み方をしている人も、意外と外から見たら見苦しいことこの上ないからやめていただきたい。お客様はすべてが神様ではないのでぜひ宅飲みで暴れてくれ。

 

【保険会社の支店長というのは、その家族というのは、こんなことまでしなくては暮してゆけないのか。黙って耐えている母にも、させている父にも腹が立った。】―19P 本文6行目

 

【「悪いね」とか「すまないね」とか、今度こそねぎらいの言葉があるだろう。私は期待したが、父は無言であった。黙って、素足のまま、私が終わるまで吹きさらしの玄関に立っていた。】―19P 本文11行目

 

  吐瀉物を片付けるこの気持ちである。どうして自分が、と、悔しいし惨めなのである。しかも吐いて行った本人は「楽しかった」という気持だけなのである。馬鹿馬鹿しいにもほどがある。

 確かにこれはもう誰かに褒められないとやっていられない。たった一言でも「ありがとう」が聞けたらまあいいかという気持になれる。

 しかし父は何も言わなかった。その代わり、真冬に「寝間着姿で」「素足のまま」「私が終わるまで」「吹きさらしの玄関に」「黙って立っていた」のである。ここが父の人間性を強く感じられるところだ。

 

【巻紙に筆で、いつもより改まった文面で (中略) 「此の度は格別の御働き」という一行があり、そこだけ朱筆で傍線が引かれてあった。

 それが父の詫び状であった。】―20P 本文5行目

 

 父は本当は申し訳ないと思っていたが、上手に言えなかったのだろう。だから行動で示した。そして、面と向かってではなくわざわざ「巻紙で」手紙を寄越した。本当に彼は、立派な父親である。

  

 今後また「父の詫び状」から抜粋して書くことがあるかもしれないが、このエッセイは全24篇で構成されている。当時の生活、そして実際に起こっていた事件や流行歌などもさりげなく知ることができる本である。

 

向田邦子「父の詫び状」は文藝春秋からの出版です。