なしのつぶて

本や映画についての個人的な感想、それに関する雑談を綴ります。

江國香織「ウエハースの椅子」

 

ウエハースの椅子 (ハルキ文庫)

ウエハースの椅子 (ハルキ文庫)

 

 今日の本

江國香織

「ウエハースの椅子」

 

 一番はじめから何てものを持ってきたのだ、と言われそうな小説だが、恐らく私が本を語るならここからだろうと思った。夏目漱石与謝野晶子も好きだ。でもそれは、また別の機会に。

 

 「ウエハースの椅子」の主人公は三十八歳の女性だ。六年関係を持っている恋人には妻と二人の子があるが、それは二人にとって取るに足らないこと。恋人がいる時間、彼女の生活は穏やかで満ち足りた時間になる。この恋は【完璧】なのだ。 

 以下、本文を引用しつつ読んでいく。

 

【かつて、私は子供で、子供というものがおそらくみんなそうであるように、絶望していた。】―本文1行目より

 

 これほどまでに灰色な初めの文章があっていいのだろうか。これから物語が始まるというのに、「絶望」という単語が登場する。この一文がもう勝負だと思う。この文で暗い話はいいと読むのをやめる人もいるだろうし、綺麗な文章だとうっとりと読み進めていく人もいるだろう。

だが読み進めていくと、この「絶望」に違和感がなくなっていく。彼女は本当に絶望していて、そして、一般的に言われる「ふつう」からは少しずれている。

 ここで少し疑問なのだが、あなたにとっての「絶望」とはなんだろうか。お金がないこと? 生きている意味が見いだせないこと? それとも、自分の居場所が見つからないこと?

 思いつく限りの「絶望」はどれもきっと正解で、不正解なのだろうと思う。希望がなければ人生はすぐ絶望できる。現に私も毎週一度は必ず絶望しているような気がする。仕事を辞めたこともあって、特に今の時期は。

 社会に迎合できない。自分が社会からはみ出している。そんな感覚をきっと「絶望」と呼ぶのだ。この主人公が、はみ出している自分を案じているような描写はないが、個人的には社会からはみだすことってすごく勇気がいる。

 

【でも、私は彼が、私の髪のちょうど三ミリ外側をなでているように感じる。私の髪の、ちょうど三ミリ外側の空気を。

 たぶん、私のからだはどこもかしこも、三ミリ外側に見えないまくがあるのだ。】―15P 本文10行目より

 

 この一文で、違和感は確信に変わった。これは私がよく知っている症状に近い。 「離人感」という言葉を聞いたことがある人は、もしかしたら少ないのかもしれない。「離人症」もまた、聞き慣れない言葉かもしれない。

 インターネットで調べてみると、精神疾患の一部と表記されているものが多い。「自分ではない自分が存在している感覚」「自分と世界との間が断絶していて現実感がない感覚」だ。離人症はともかく、離人感は健康な人でも時々起こるそうなので恐らく何となく覚えがあるだろう。頭にもやがかかって、視界がぼんやりとしているあの感覚だ。夢の中を歩いているような、白い何かに包まれているあの感覚のことだ。

 昔、私はこれを白昼夢だと思っていた。違うと知ったのはごく最近のことだ。

 ここで本文に戻るが、彼女は間違いなく世界と自分との間に壁があることを察していて、自分のからだの中にいる自分自身が本物であるような、そんな感覚を持っている。恐らく、離人感が強い人物だ。

 彼女は壊れている。それを本人がわかっている。孤独で、自分の居場所がどこにあるのかわからなくて、だから他人に安心を求めてしまうのだ。他人のくれる安心なんて一過性のもので、不確かだとわかってはいても。

 この主人公は画家であるが、芸術家というものは得てしてどこかネジが一本飛んでしまっているのかもしれない。

 

【帰り道、私は注意深く、来たときと別の道を選んで帰る。上手く一人に戻れるように。】―37P 本文8行目

 

【私は彼を愛している。彼はそれを知っている。私たちはそれ以上なにも望むことがない。終点。そこは荒野だ。】―48P 本文2行目

 

【私は、自分が恋人の人生の離れに間借りしている居候であるように感じる。】―89P 本文15行目

 

 主人公の彼女はきっといつも寂しい。ただその寂しさの埋め方がわからない。だから他人と距離をとろうとするし、自分に自信がないせいで自分のことさえ「どうでもいいこと」として世界の外側に置いてしまっている。

 そのために物語は進んでいき、彼女の幸福は少しずつ揺らいでいく。

 

 あまり詳しく書いても読む気が削がれてしまいそうなので、この本はここまでにする。

 作者のやわらかな言葉選び、上手な漢字の開き、そして突拍子もない感性に私はいつも脱帽する。彼女の作品は孤独に満ちていて、だから美しいのだと思う。

 タイトル「ウエハースの椅子」について本文に言及している部分があるが、そこは今回抜粋しない。

 

今後紹介していく本たちも、あまり細かく書くことはしない。もし気になった方がいたら、ぜひ読んでみてほしい。書店にも図書館にも本は置いてあって、いつでも読むことができるのだから。

 

江國香織「ウエハースの椅子」はハルキ文庫からの出版です。